2023 / 04
Solo exhibition “ Walking birds, feelimg like Monomiyusan ”
at CENTER Gallery in Kagawa
言葉とは何か、我々は文字をみている。
世界はモノの配置である。
永遠と続く地面から、全てのものは生えるようにして存在している。
配置とは何か。それは俯瞰から鳥のような視点で、地面に対してポコポコとモノが誰かによって置かれているような状態だ。では我々はその世界をどの地点からみているのか。私たちは地面と平行に、それらの配置を横から眺めている。世界を視覚する時、奥行きはあるが我々は二次元的にそれを捉えている。
視覚とは、風景とは何か、本来風景には名前など存在していないし、言葉もない。
つまり「色、形、線、それらの配置によって生まれた空間」それらをみている。
なので私は、我々が生まれた時から目に映り捉えたもの全てを[風景]とよび、三次元的にモノが配置された状態があるという俯瞰の視点にたち、名前や言葉のない状態、言葉を得た我々が見ることのできない世界を「無形の風景(intangible landscape)」とよぶ。
風景を構成するものは何か、極端にいうとモノだけだが、それを一つのモノに焦点を合わせてみると、モノと背景になるだろう。モノという単体を視覚で捉えるには、これまでの(自分が生まれてから)目にうつした「風景」全てを用いて対峙をしている。つまりモノの先には風景があり、またモノへと続く循環がある。
私は「無形の風景」を、モノ(風景)との距離を考えたり、ピントをずらしたり、様々な状態で現実に作ろうと試みている。言葉や名前を解さずに、「色、形、線、それらの配置」これらだけを用いて私は鑑賞者の対象物となるものを作りたいのだ。鑑賞者の風景(思い出)と繋がることで鏡のように映し出すことのできる、誰にとっても平等な、まるで「月」のように対象物としてあり続けるものを私は提示したい。世界がどこにあるのか、目の前にあるのは世界の外殻(色、形、線、それらの配置によって生まれた空間)である。内容(世界観)は常に鑑賞者の中にあるのだ。